神奈川県高等学校教科研究会情報部会 講演
始まる「情報デザイン」の視点
~高校次期学習指導要領「情報I」で「情報デザイン」を教える前に
専修大学ネットワーク情報学部 上平崇仁先生
「情報デザイン」の定義は、実は曖昧
今日は、高校で取り入れられるということで、再び注目を集めることになった「情報デザイン」という言葉について解説し、改めて位置付け直すことに挑戦してみたいと思います。
新しく改訂された情報Iの学習指導要領では、「コミュニケーションと情報デザイン」という学習の柱が立てられています。その中がア、イ、ウと分かれていて、その中では「情報デザイン」という学問領域が、当たり前に存在するかのように扱われています。しかし、実際は情報デザインという分野は定義や範囲が非常に曖昧で、我々が大学で教える際にも長年困ってきたという心苦しい告白をしなければなりません。このままでは高校の先生方も教えるのは難しいのではないかという責任を感じ、私も微力ながら情報デザインとは何かをもう一回位置付け直そうと啓蒙活動している次第です。
まず、いくつかの定義の前例を見てみましょう。
「情報デザイン」を検索して真っ先に引っかかるWikipediaを見てみると、このように書かれています。一般的な見方で割とすっきりまとめられていますね。これによると、一つ目が『人間とモノや環境との関係性に形を与える方法論』で、インターフェースやインタラクションと呼ばれる領域です。二つ目の『生活の中にあふれる無数の情報を分かりやすく出す手法』というのは、コミュニケーションの領域です。このように、主にインタラクション・インターフェースとコミュニケーションの領域をまとめて情報デザインと呼んでいるというのが、初期の頃の一般的な考え方でした。
この一つ目の方は、大まかにプロダクトデザインの延長にあるものです。道具などのモノのデザインの領域では、生活用品の中にコンピュータが入り始めたことで、モノのフォルムだけでなく、利用者が対話し、操作するための「わかりやすさ」をどう作っていくかという問題が急速に浮上するようになってきました。一方で二つ目は、どちらかというと新聞や雑誌などに関わる「編集」や「グラフィックデザイン」の領域に近いと言えます。ですから、初期の2000年代に情報デザインに吸い寄せられた人々は、プロダクトの領域から入ってきた人と、編集やグラフィックの領域から入ってきた人に大別されていました。私自身は後者にあたります。
新学習指導要領の解説では、情報デザインとは、「効果的なコミュニケーションや問題解決のために、情報を整理したり、目的や意図を持った情報を受け手に対して分かりやすく伝達したり、操作性を高めたりするためのデザインの基礎知識や表現方法及びその技術のことである」とされています。Wikipediaの記述と近いですね。やはりインタフェース・インタラクション領域とコミュニケーション領域にまたがる領域を指しているようです。
でもよく考えてみましょう。このように複数の分野をひっくるめた複合的な言葉として用いられているということは、つまり明確な焦点を絞って「これを学ぶことが情報デザインの学び」と言い切ることが極めて難しいということを意味しています。この中心の存在は、学生たちの学びの「芯」にもつながることで、それがないことに我々もずいぶん苦しめられました。ですので、学生たちも不満を持ちがちでしたし、着眼点をかえてズバリという言い方ができないか、ということがずっと検討されてきたわけです。
情報デザインとは何かは、時代の変化と共にずっと移り変わっています。まず、デザインにおいて「どうやるか(How)」は必ずしも目的ではありません。もっと本質的なことが問われなくてはなりません。そこである教科書では「嬉しい体験を作ることを情報デザインと言います」という説明されています。ずいぶんチャレンジングですね。実は、これは我々が書いたものです。すみません。我々も情報デザインのつかみ所のなさに困っておりまして、そこで専門家の仲間とこの教科書を手弁当で書くことにしたのですが、当時の我々のグループの代表が「これくらい短くポイントを言わないと初心者には伝わらないだろう」と、挑戦的に言い切ったものです。
この執筆時期(2008年頃)は、ちょうど「情報(information)からエクスペリエンス(experience)へ」ということで、user experience(UX)とかuser experience design(UXデザイン)といった考え方が広く普及し始めた頃でした。要するに、コミュニケーションを通して、その結果(ゴール)にうれしい体験が起こるのであって、その途中にある情報だけ切り離してそれが「効果的かどうか」を議論したところで仕方がないわけです。その情報によって何を目指すのかの目的の方を見た上でデザインすることが大事で、手段はそれに付随するものですよ、という話です。このような転回的な言い方は確かに歯切れが良くて説得力もうまれやすいんですが、語弊も生まれやすいもので、「それをわざわざ『情報デザイン』と言うことはないだろう」とか、全ての目的が「うれしい」のためというのもおかしいだろう、などの反論があったりしました。確かに、例えば「お弔い」のためのデザインには、うれしい以外の感情も考慮すべきですね。
デザインの民主化=誰もがデザインを行う時代だからこそ、皆が学ぶべき
こちらの言葉は、渡辺保史さんという方の言葉です。渡辺さんは5年ほど前に若くして亡くなられましたが、情報デザイン領域の先駆者です。コミュニケーションからさらに深めて、プロのデザイナーだけでなく一般の人々が主体的に情報を扱う時代になっていく。情報デザインとは自分たちのコミュニティをよくしていく活動のことだ、と説明しています。Wikipediaのような当たり障りのない説明ではなく、「なんのためにデザインするのか」を鋭く見据えた言葉だと思います。
私もここは重要なポイントだと思います。指導要領の解説にあるように、「“効果的な”コミュニケーション」などの効率性を強調すると、当事者性のない人でも肩代わりできる仕事、と解釈できてしまいます。効率化自体が悪いわけではありませんが、それを指標にして評価するならば、合理的な理屈によって非専門家が実践するより専門家にやってもらうほうがよい結果になるという話にたやすく入れ替わるでしょう。でも、高校で国民のほとんどが学ぶということは、決して効率を上げるという問題ではないはずです。数字には出なくても、やってみるという経験を通して、「自らが関与する態度」の醸成こそが大事なはずです。
そもそも、情報デザインが注目された理由は、一部のデザイナーだけの仕事ではなくて「情報」という双方向性を持つ性質のもとで、だれでも情報を扱い、創造し、発信することが可能な社会になるという「民主化」が期待されたからです。過酷さを増す社会の中で、共に助け合いながら生き抜いていくために、だれもが携えていくべき基礎的な考え方であることを、改めて強調しなければならないでしょう。
デザインの民主化というのは、実は世界的な潮流です。歴史の中では、一部で特権化されていた様々なものが、だんだん人々の手に渡っていく流れがあります。
まず政治で言えば、それまで王様のような特権階級が全てを握っていたことが、市民革命によって人々の手に渡って、約束ごとを決める時はみんなで決めていこう、ということに変わりました。そして20年ほど前にインターネットができた時は、メディアが民主化されました。それまではマスコミが一方的に届けるだけだったのが、誰もが声を上げることができるようになりました。さらに近年起こっているのが、一部のクリエイターだけが創造するのではなく、人々が自分たちの手でデザインできるようにしていこうという流れです。これは日本に限らず、世界的なムーブメントです。このように並べてみると、デザインすることもまた何かをコントロールすることであり、つまるところは「権力」の問題が潜んでいることが見えてくるでしょう。そして、ものを作るということが人々の手に渡るということは、主体性を得るとともに、人々自身が「責任」を持つことを自覚することが必要になります。今回の学習指導要領の改訂も、大きな局面で見れば、そういった社会の進化の流れの中に位置付けられるのではないでしょうか。
下図は、情報社会の技術とメディアの変遷を大まかに圧縮して表したものです。今2018年ですが、スマホが出たのが2007年ですので、もう10年が経過しています。Flashとか、小気味よく動いたりするのが「リッチなコンテンツ」とか言われた時代がありましたが、閲覧環境がスマホに置きかわってからは、タイムラインに流れてきて手軽にシェアできるような表現が好まれるように変わっていきます。そして大事なこととして、今やWEBも衰退していることは指摘されなければなりません。皆がSNSやアプリのようなサービスの中で発信したり書いたりするようになりましたし、Googleの検索結果もアフィリエイト系コンテンツに汚染されました。今ではオープンなWEBの中に直接コンテンツを置く人はほとんどいなくなりましたよね。
「情報デザイン」という問題意識が立ち上がって行ったのは、この2001年から2007年頃、まだWebを個人で手作りして公開していた時代のことです。その後のスマホ時代になると、情報は実生活に溶け込み、画面の内側と外側を分けることは徐々に意味を成さなくなっていきます。いつでもどこでもだれとでも手早く情報がとれることは空気のように当たり前になり、情報という冠は関係なく純粋にデザインの問題になっていきました。そして情報デザインと入れ替わるように、「デザイン思考」という言葉がビジネス社会を席巻し始めます。デザイン思考は、デザイナーのように考えることは誰でもできるとして、デザイン的な考え方とやり方で解決策を見出していくプロセスを明快な方法論にしたものです。デザイナーではない人々が、まだデザインが行き渡ってない領域に適用するところに特徴があります。当初の情報デザインの中にあった、みんなの問題であるという「民主化」への期待は、形を変えつつ、より具体的なフィールドの中で検討され続けていることが見えてきます。このような流れを抑えておくことは重要です。
「情報デザイン」の背景の変遷
情報をデザインしていこうというのは、いわば情報がまだ未開拓で夢があった時代の産物です。今となっては笑い話ですが、90年代後期には、情報技術による革命が起こるとして、皆がバラ色の未来を感じていたことがありました。その後、情報が増え過ぎて、ちょっと思っていたのと違うぞということを、感じられているのが今の時代かと思います。
「情報が増えすぎた」とはどういう状況でしょうか。それを確認しておきたいと思います。こちらはNathan Shedoroffという、情報デザインの草創期に活躍した人が描いた図です。かなり古いものですが、初期の頃の情報デザインを説明する時によく使われたもので、今でも重要なものです。
ご覧のように、「データ」があって、それが「情報」になって、「知識」になり、「知恵」になるという流れがすっきりと示されています。ここのポイントは、情報は個人的な経験、つまり人の中に入っていって初めて知識になるということ、もう一つは、コンテクスト(文脈)があって初めて情報になるということです。ですから、コンテクストのない情報はない、ということになります。人の外にある時は基本的に全て「データ」で、何かしらのコンテクストや必要性があって、その時初めて「情報」になるわけです。具体的な例でいうとバスの時刻表です。通りすがりの人が見たら、ただの数字の羅列です。でも「バスに乗ろう」という動機を持っている人にとっては、ただの数字から到着時刻を示す情報になります。それがコンテクストです。
問題は、情報の手前のデータです。実際に情報が必要になるコンテクストは限られていますので、データと情報は、近いように見えて実際はもっと距離があるように思います。
昔は、データというのはアンケートを取ったり実際に調査したりして自分で作るものでした。もちろん今もそうですが、今では手に入れることができるデータは段違いに増えています。それにシステムに関わる様々なログは自動で取ることができますし、複雑で巨大なビッグデータとなっています。データの海に囲まれた中で、いかにそれを加工して、使える情報にしていくかということが情報産業では大きなテーマとなっているわけです。
でも、データが爆発的に増えても、データはコンテクストなしに情報にはなりません。我々が必要としないままでは意味を持たない断片のままですし、ちゃんと接して消化しきれるような時間が増えたわけではないわけです。そういう意味で、さっきの整然と繋がる図とはかなり違う様相を示すようになっていると言えます。情報をデザインすると言うならば、同時に、情報の背後にあるコンテクスト、そして知識の背後にある経験をどのように考えていくかということが、今日では非常に重要になってきていると言えるでしょう。
情報デザインの三つの段階
このような経緯を踏まえれば、「情報」デザインの意味も、20年前からもう少しアップデートしていかなければならないのではないか・・・というのが初めに話しました問題意識です。そこで、情報デザインの段階を3つのバージョンに分けて捉えてみます。
まず一番初期の1.0は、人が何かしら伝えたいことがある時、それを適切に変換すれば効果的に伝わるだろうと、情報にまだ夢を抱いていた頃の話です。新しい学習指導要領でも書かれていますが、ここを適切に変換すれば、みんなにうまく伝わるだろうという考え方です。しかし実際は、これは幻想だと言わざるを得ません。例えば、極めてわかりやすく描かれた地図を見ても読み取れず、逆にテキストなら理解できる人もいます。同じことを音声で聞いた方が理解できる人もいれば、活字を読む方がよく理解できる人もいます。先生が心を尽くして説明しても、聞く側の生徒は上の空であれば全く届きません。このように、受けとめる人のリテラシーもコンテクストもかなりバラバラなのが現実世界ですから、いくら差し出す側が最大限に努力したところで、一つの同じやり方で等しく皆に伝わるというわけではないですよね。この考え方は一方通行型のマス・コミュニケーションの流れを引きずっていると思います。メッセージを正しく変換すれば正しく注入されるはずという素朴な考え方は、「導管モデル」と呼ばれます。複雑なことをわかりやすく整理して伝えるというのは、もっともらしいことですが、実際のところ、それで正確に伝わるかというと怪しいのです。
Webサイトの構造化も同様です。昔はトップページのメニューから順に閲覧して必要なページを探していくという標準的な閲覧方法を想定していたかも知れませんが、今ではキーワード検索を重ねることによってピンポイントで辿り着く人の方が多いのではないでしょうか。情報が増えすぎた今は、カテゴリーのような階層構造の中から探していける人はかなり少ないでしょう。
さて、それからしばらくして、「誰にでも伝わる」というのは幻想だろうということを受けとめた上で、情報を必要とする特定の誰かに対して届けるということを、もっと焦点を絞って仮説検証していくべきではないかという風潮が強まってきました。情報の送り手だけでなく、受け手側の体験や文脈こそを考慮した上で、トライアンドエラーを繰り返しながら探っていくべきだということです。これを情報デザインの2.0とします。今から10年ぐらい前には既に一般的になっていた、Human Centered Design ProcessやUser Experience Designなどの考え方の中に位置付けられます。先ほどご紹介した我々が書いた本も、この頃の話です。この本では、ユーザーの調査やデザインプロセスを非常に重視しています。使う人たちは何を望んでいるのかよく調べようとか、実際に使えているかどうかをちゃんとテストして調べよう、といった形で、try and errorを繰り返して改善し、「人」に近づけていこうということを主張しています。
これらの方法論はISOで「インタラクティブシステムの人間中心設計に関する規格」として規格化されています。組織で製品開発に取り組む時にはデザイナーの属人的なカンに頼るのではなく、こういったプロセスがあることを意識して作るといいね、ということを様々な職種の人にわかるような共通言語にしたものです。もちろん、実際には目的に応じていろいろな形式がとられますが、だいたいこの6つがなんらかの形で組み合わさっています。
21世紀になって20年が経過し、こういったプロセスでデザインすることが普及するようになった先に、さらにもう一段階次のことが起こっています。今では、情報の受け手側が正しい判断力を持っているという前提も、情報を差し出す側が正しいことを伝えているという前提もなくなってしまいました。これは非常に大きな問題で、最近私が気になっているのはこのあたりです。まず情報を出す側は、ポジショントーク、フェイクニュース、さらにはステマのようなものも含めて、誰が・何を言っているかということに関しても、だんだん本当かどうかも疑わしくなり、信用することが難しくなっています。そして、受け手の方も、「本当かどうか」「正しく解釈する」よりも短絡的に「見たいものを見る」ということが次第に明らかになってきたわけです。この渾沌とした状況に対処することを情報デザイン3.0としましょう。
このような時代に、我々に必要なのは、情報の洪水を切り抜けていく知性や倫理観であり、情報をデザインする際の視野の広さです。デザインというのは、何かを意図的に強調して何かを意図的に捨てる作業とは常に切り離せませんので、学習活動の中でも、おのずとそういった操作は行われることかと思います。今申し上げましたような懸念を念頭に置きつつ、先生方は、伝えたいことを適切に伝えようという素朴な話だけで終わらせずに、そこを逆手に取ったことがいろいろ起こっているよ、被害に遭わないように、そして加害者にならないように気をつけようね、といったようなことを考慮しながら教えていく必要があるのではないかと思うのです。このような、みんなの公共圏をよりよい場にすることを一斉に考えることができる機会は、おそらく「情報Ⅰ」以外に存在しないのではないでしょうか。
情報があふれ、「見たいものを見る」時代に起きていること
これは大変有名な絵ですが、多義図形といって、2つの図が隠れているものです。それでは、まず、「これはウサギだ」と思って見てもらえますか。そうすると、いたはずのアヒルが忽然と消えてしまったことに気がつきましたか? 逆にアヒルを見たら、なんと今度はウサギが消えてしまいますよね。ここにある図そのものは何一つ変わっていません。しかし、我々が頭の中で、ある意味を持つものを組み立てることによって、そこに存在していた別のものは消えてしまうという不思議な現状が起こるということです。
現実世界は常に複雑なもので、様々な意味が組み合わさっています。我々が何かを見るとか、意味を解釈するということは、それをどう切り取って立ち上げると同時に、何かしらの情報を消すことで成り立っているわけです。「これはウサギだ」と思ってしまうと、ウサギしか見えなくなってしまうのです。そのため、何か一つのこと信じたらそのまま盲信してしまったりすることが起きてしまうわけです。
関連する重要な事例として、ケンブリッジ・アナリティカという選挙コンサルティング会社が起こした事件がありました。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、大統領選挙でトランプ陣営の選挙運動や、ブレグジット( Brexit:Britain + exit;イギリスのEU離脱)の国民投票の裏でいろいろな情報操作をしたと言われています。
彼らはFacebookから最大8700万人の利用者データを収集しました。その人たちがつぶやいている内容とか『いいね』をしたコンテンツを分析して、トランプ陣営の立場からそれぞれ個人の関心事に応じた政治広告をスポット的に行ったわけです。それを暴露した人がいて、2018年の春頃に大問題になりました。例えば、「移民問題が心配だ」という記事に「いいね」をしている人は、移民に致して不安な気持ちを持っているだろうという予測が成り立ちます。その人のタイムラインに、意図的に不安をあおるために誇張した記事をピンポイントで何度も届ければ、もちろん効きますよね。センセーショナルなグラフや図が付けられていれば、その人の排他的な信念はもっと強固になるでしょう。見たいものを見るという気持ちが他人に利用されているのです。現実に、情報というものは今ではここまで操作されているという事例があちこちででてきているわけで、それに対してどう対処していくべきかをもっと考えていく必要があります。
「情報が増えすぎた時代」の情報デザインの再定義
このように、「情報に夢があった時代」から今や「情報が増えすぎた時代」になってしまいました。
残念なことですが、「情報デザイン」という言葉は廃れてしまい、今ではほとんどの専門家は関心を持っていないということがあります。IT業界は、ここ20年で飛躍的に発展しましたが、「情報デザインの研究者」と名乗っている人はほんの少数しかおらず、「情報デザイナー」と名乗っている人は、多分日本に1人もいません。これはそもそも「情報」そのものが一義的に捉えられないからです。先生方もご存知のように、「情報」と言うと、コンピューターサイエンスだと思う人もいれば、コンテンツそのものだと思う人もいます。それをデザインすると言っても、よくわからず混乱するのは当然です。
情報デザインは下火になってしまいましたが、世間的にはデザインは大ブームです。中等教育の中にデザイン教育が入ることは多くの人たちが歓迎するでしょうし、私も心から応援しています。また今のデザインは様々な学際領域に展開されています。したがって、「情報デザイン」は領域を示すものではなく、デザインを情報科の中で学ぶ教育用語だという言い方をしていけば、何の問題もないでしょう。
そこで、「サービスデザイン」の言い方をヒントに考えてみます。サービスデザインというのは、サービスを受ける顧客側と提供側を繋いで具体的なビジネスに落とし込んでいく過程を統合的にデザインする、という新しい領域です。liveworkという会社は、サービスデザインは、「既にあるデザインプロセスやスキルを、既にあるデザインプロセスとそのスキルをサービス開発に応用すること」と説明しています。よく知られているデザインを、まだ未開拓な領域に応用していくということですね。
こういった言い方を参考に、情報デザインを再定義してみました。「デザインの基本的な考え方を、社会における諸問題や自分自身の日常生活の中に、情報の学びの視点から応用していく活動」となります。情報に関わる問題意識は時代にあわせて常に変化していきますが、デザインの考え方自体はそこまで変わりませんし、他の学問や仕事にも幅広く応用が利きます。こういう言い方であればしばらく持ちます。要するに身の回りにある「デザイン」の基本から始めればいいので、学習に使えるリソースも豊富になりますし、参入する人も増えるのではないでしょうか。
それでは、デザインとは何か
それではその根本となるデザインとは何か、ということを大まかに説明します。まずカタカナの『デザイン』というのは、スタイリッシュなもの、とか非常に狭い意味に取られがちです。でも、そもそも英語の『Design』というのはかなり広い意味で、設計・計画という意味合いも含まれます。経営学者のハーバード・サイモンは、半世紀前に「現在の状況から好ましい状況に変えていくことをしているものは、誰でもデザインしているのだ」という言葉を残しています。これが最も広義のDesignの定義と言っていいでしょう。ですから、この点線の方、広い意味の方を押さえておいて、情報のいろいろな問題をここで解釈していくということができるのではないかと思います。
「Design」の三つの面~問題発見・解決、価値創造、主体的活動
この点線の中の部分は、人によって本当にいろんな説明がされますが、私の個人的な解釈では、大まかに三つぐらいの面で捉えることができると思います。まず一つ目が、何らかの問題、困りごとを見つけて、それに対する解を作っていくこと、つまり問題発見・問題解決としての活動です。こちらの左の写真は、アフリカでの水汲みが、重くて困っていたという問題に対して、あるデザイナーが回転するホイール状のものを提案し、転がしながら子どもの少ない力でも引っ張れるようになったというものです。
二つ目は、誰もが見過ごしてきたものごとに対して何かしらの意味を与え、ストーリーを生み出していく行為ということです。つまり新しい価値を創造するということです。例えば右側はアニマルラバーバンドという輪ゴムです。輪ゴム自体は、用途と言えばものを束ねて縛るぐらいで、単機能のものですよね。それが動物の形をしているというだけです。でも、知らないで閉じてあるゴムをほどいた途端に動物が現れると、とてもビックリします。そして、これまでは単なる汚らしいゴムの輪っかに過ぎなかったものが、机の片隅で愛らしい物語を生むようになります。気持ちがちょっと和むだけでなく、使い捨てでなく大事に使おうという気持ちへと変えます。つまりこのデザインは、輪ゴムにこれまで存在しなかった新しい意味を与えていると言えます。
デザインとは何かという解釈では、今お話しした問題発見・問題解決、それから価値や意味の創造という二つは比較的よく言われます。これらは別々のモノではなく、見方の問題であることには注意しましょう。例えば今紹介したアニマルラバーバンドは、大事に使おうという意味では、サスティナブル(持続可能な)なデザインでもあります。つまり見方によっては、使い捨て文化に対する問題解決という解釈も成り立ちます。いいデザインは両者が同時に成り立っているものです。
これらに加えて、私が個人的に大事だと思っていることがもう一つあります。それは「デザインは、主体的な活動である」ということです。「現在の状況を好ましい方向に変える」という本来の意味からすると、デザイナーのような代理人にしてお任せしてやってもらったり、セレクトショップにありものを買ったりするのでなく、自分で対処し、工夫することです。例えば、左側はタクシーの料金をやりとりするトレイですが、お金を取りやすいように、運転手さんが自分でふちのところを切り取っています。あるいは右側は、あり合わせの廃材を使って清掃の道具を使いやすいように並べて掛けています。これらは目の前にある問題に対処するための、立派なデザインです。問題は解決して終わるわけでなく次々に生まれます。それを自分で捉え直して対処していくことです。高校で指導する場合は特に、この三番目に気付かせることが大事だと思っています。
ここまでの説明を一枚にまとめてみます。今お話ししたような、問題発見・問題解決、価値創造、主体性といった活動を、情報の学びの領域から取り組んでいくのが情報デザインだというと、うまく整理できるかなと思います。あくまでも私の経験に基づいた解釈ですので、まだ甘いところもあるでしょう。これをたたき台としてもっといい言い方に変えていければよいかと思っています。
デザインの考え方自体は、現在の社会で非常に求められています。しかし、今までは産業界が主導していたので、どうしても経済価値がある取り組みが優先されるという傾向があります。実際は小さな粒度であれば、デザインは皆がしているわけで、お金が発生しなくてもデザインすることは存在しているのです。デザイナーじゃないからデザインはできないとか、誰からも頼まれないからデザインする機会がない、というのは誤解です。
日々の学びの場はデザインの宝庫
「自分たちでやってみる」事例をご紹介しましょう。私の子どもは今、小2でスイミングスクールに通っていますが、毎度ゴーグルとか水泳帽子とか、いろいろなものを忘れてくるのですね。何度言っても直らないので、だったらリュックのファスナーを閉めるタイミングで、何かしら点検できるようなものがあればいいんじゃないか、と思ってこんな木のタグを作りました。ファスナーを閉める行為と中身をチェックする行為を重ねるというデザインです。先ほどのタクシーの運転手さんがトレイを自分で切ったのと同じで、忘れ物が多いという問題に対して、自分の手で必要なものを作るということです。これをファスナーに付けておくことで、自分で点検できるようにしたわけです。決してお金のためにやったことではありません。本当は全部子どもにやってほしかったのですが、この時はどんなものがあれば忘れ物が防げるのか、一緒に考えながら作りました。そうしたら、メダル状で付けているとかっこいいらしく、子どもたちの中で人気が出て、欲しがる子が続出しました。これはレーザカッターで切り出しています。デジタル工作機械を設置してあるところは最近街中にも増えていますので、個人でも簡単にものづくりすることができます。
こちらは九九のパズルの試作品です。大学が連携している近隣の小学校に持ち込んでいるところです。掛け算九九は普通はカードや歌で覚えますが、ただ言葉だけで丸暗記しても、数の概念は頭に入りにくいですよね。そこで数が組み合わさって大きな数になっている規則性に、触りながら気付けるものができないかと、学生たちと一緒にデザインしました。このパズルでは、例えば12という数は、いくつかの細かい数に分解されることがわかり、素因数分解のような考え方とも繋げることもできます。これも頼まれたものではなく、食卓での会話をきっかけに始めた自主プロジェクトです。
これと同じように、先生方が日々接している学びの場をよく見渡せば、情報はあちこちにありますし、デザインすることの宝庫のはずなのです。これは、私自身も日々意識していることです。ここでは「真正な」というちょっと堅い言い方をしていますが、空想ではなく地に足の着いた現場ということです。わたしたちは、それに対して自分の手でできる範囲で新しい価値を見出したり、もっと楽しく変えたりできるはずです。
そういうわけで、デザインを学ぶのであれば、ステレオタイプ的にどこかのお店のポスターやウェブサイトを請け負うよりも、普段使っている校舎の中にもいろいろな題材が埋まっていると考えてみましょう。教室の中を見渡してみると面白いことが発見できるかもしれません。まずはそれが先生たち自身にとってのデザインの課題なのではないでしょうか。
神奈川県高等学校教科研究会情報部会 講演より(2018年10月20日)